薬膳を勉強し始めた理由
【要約】
子どものころから病気がちで、喘息・肺気胸・脳腫瘍を経験。
後遺症の不具合が解決できないことから西洋医学に限界を感じ、
東洋医学、特に中医学と薬膳に興味を持った。
私は神奈川県で生まれました。誕生したとき、頭にかさぶたのようなものがあったと聞いています。家族にアレルギー体質の人はいないものの、親戚にはアレルギーを持つ人もいたので、「この子もアレルギー体質なのではないか」と思ったそうです。
そんな心配が的中し、喘息の症状が出始めたのは5歳ごろのこと。妹が誕生し、母親にかまってもらえる時間が少なくなったことが、喘息が出始めたきっかけだったのかもしれません。
喘息で入退院を繰り返すようになったのは、小学校3~4年生のころだったと思います。
当時、私がお世話になっていた国立病院では、喘息の場合、発作がおさまらずに病院へ行くと吸入と点滴で処置し、それでもおさまらない場合は入院となります。たいていは1週間もすると落ち着くので、翌週からは外出許可が出て、毎日病院から学校へ通います。朝、父に迎えに来てもらって学校へいき、夕方、また病院へ戻って眠るという生活です。学校へ通っても調子のよい状態が続いた場合は、週末に外泊許可が出ます。家でお泊りできるのです。それで問題なければ退院。順調に回復したときは2週間程度で退院できたと思います。しかし、外泊のたびに発作を起こし、病院へ逆戻り。最長で8か月間、入院したこともありました。
一度は、臨死体験のようなものをしたこともありました。あまりに苦しくて、身体から抜け出したかったのでしょう。意識の中で、どんどん空の上へ上へと昇っていくのです。病院に着いたところで車いすに乗せられ、看護師さんに頬を叩かれたことで、意識が戻りました。このときはかなりひどかったため、血中酸素濃度の確認を行うために手首からの動脈採血が行われ、入院と同時に酸素テントに入りました。
(動脈採決は通常の採血より痛いとは聞いていましたが、朦朧とした意識の中でも痛みを感じたことを覚えています。通常時に行われたら相当痛かったでしょうね……)
両親が移住を決めたのは、おそらくこのときだったのではないかなと思います。空気のきれいな場所ということで、医師からは北海道と長野県を推薦されました。東京出身の両親にとってさすがに北海道は遠すぎるということで、長野県を選択し、私が中学生のときに一家で移住しました。
おかげさまで、長野に引っ越してからは、喘息で入院したことは一度もありません。完治はしていませんが、問題なく日常生活が送れています。しかし、私の病歴は喘息では終わりませんでした。
2000年の暮れでした。胸が苦しく、少し動くだけで息が上がる状態。右腕が妙にだるく、左手中心でハンドルを握って運転し、出社しました。症状がおさまらないためネットで調べたところ、出てきたのは『気胸』という病名。まさかと思いつつも行きつけの内科に行き、レントゲンを撮ったところ見事的中。緊急入院となりました。小さな病院の内科に入院したため、胸から管を通すという王道の処置(専門的な病院だと、若い女性の場合は脇など、乳腺の影響がないところから行うケースが多いようです)で年を越し、年が明けてから退院しました。
気胸はこのときだけでは済まず、数年のうちに再発しましたが、2度目は早めに気づいて安静にしていたので、自宅療養で自然治癒させました。
さらに、2005年には度重なる頭痛に襲われるようになります。痛くない時間よりも痛い時間の方が長いと感じるようになったころ、新しい職場で知り合った友人たちとの旅行計画があり、迷惑をかけてしまうと感じてドタキャンを選択。その間の休みを使って初めて病院へ行きました。
当初はパソコンを使ったハードワークによる肩こりからくる頭痛だろうと考え整体にも通ったのですが、いっこうによくなりません。ついには車の運転もままならなくなり、家族に運転をお願いして初めて脳外科を受診。CT検査の結果、脳腫瘍が判明します。良性の可能性が高いということでその日は帰宅し、仕事の引継ぎや入院準備を済ませてから後日入院、手術となりました。
手術前の説明で、後遺症の可能性などは話していたのだと思います。しかし、当時の私はとにかく頭痛から逃れたい一心でしたし、常に痛みと戦っていたので、そのときの話は何も覚えていません。
手術後に意識を取り戻したあと、ものすごい後悔に襲われて、笑うことができなくなりました。麻痺で、自分の顔がゆがんでいるようにしか思えなかったからです。鏡を見れば正常であることはわかりますが、鏡すら信じられないくらいの違和感でした。左側頭部は、常にヘルメットをかぶっているような感覚。顔も左半分は感覚が鈍く、飲みものを口に運べば左側からこぼれ出てしまう始末。視界までがゆがんでいるようで、車の運転をするときは首を右側に傾げていないとまっすぐ見えないような状態でした。その後、視界のゆがみはもどったのですが、麻痺は継続。さらに、左耳が詰まる不具合も気になるようになってきました。耳がふさがって、自分の呼吸音がうるさいくらいに響くという症状です。いくつかの耳鼻科で検査をするも、原因不明。このイライラする症状と付き合いっていかなくてはならなくなりました。
その後、左側の筋肉が動かないことから顎もずれ、かみ合わせも変わってしまった結果、一時期は顎関節症のような症状に苦しめられました。歯の矯正と顎の手術まで検討したものの、その結論が出るころには痛みが治まっていたことと、原因が原因だけに手術をしたとしても、よい状態がいつまで続くかはわからないと言われたため、手術はしませんでした。
これらの経験から、西洋医学の限界を感じたといえるかもしれません。私の興味は、自然と東洋医学に傾いていきました。
中医学や薬膳に関する書籍を読むことから始め、もっと学びたいと思うようになり一般的な通信教育業務を行う会社が運営している通信教育講座で薬膳について学びました。しかし、表面的なことしか理解できず、さらに深く理解したいと思うようになり、中国薬膳研究会(中国国務院・科学技術部・国家中医薬管理局の委託により薬膳に関する国の方針、政策を提案し、実行する薬膳の最高権威機構)が認める日本の教育機関、本草薬膳学院に入学。通信コースを選択し、自宅での学習と学校でのスクーリングを経て卒業レポートに挑み、2017年に基礎コースを修了。中医薬膳師となりました。
さらに勉強を続け、2018年4月、中国薬膳研究会開催の記述式テスト8科目(中医基礎学・中医診断学・中医営養学・中医内科学・食材学・中薬学・方剤学・弁証施膳)をクリアして、国際薬膳師資格となりました。
プラスワン薬膳の提案
【要約】
まず大切なのは、「自分のからだに役立つものだ」という意識を持つこと。
つまり、あなたの意識を“プラスワン”することから薬膳をはじめてみませんか?
薬膳ということばは広く知られるようになりましたが、その捉え方は人それぞれのようです。「薬を使った料理のことで、おいしくないもの」という印象をお持ちの方も多いのではないでしょうか?
薬膳の伝統的な概念としては、『病を持っている人を対象とした食事療法の一種で、食材と中薬を用いて作った病を治すための料理』を指すのですが、現代では、健康維持や病気の予防・治療効果などの作用がある食事は、すべて薬膳と呼ばれるようになりました。つまり、薬膳という言葉を広い意味で捉えるならば、中薬を使わなくても薬膳といえます。病気を予防したり、健康増進を図ったりするために作られたものであれば、家庭料理も一種の薬膳なのです。
※本来の薬膳は「中医学の知識を用いて」という前提で作る膳食を指しますが、ここでは詳しい知識を持っていなくても、「○○(食材)は××(臓腑や症状、病気など)によい」と知って取り入れるだけで、十分薬膳だと考えます。
「どうせなら本格的に、中薬を使ってみたい!」と考える人もいらっしゃることでしょう。“中薬”というと薬のイメージが強くなりますが、実は、身近なものも数多く含まれています。中薬の生姜(しょうきょう)は、その漢字からもわかる通り生姜(しょうが)のことですし、山薬(さんやく)という中薬は山芋を乾燥させたものです。中薬と比べると効果は少々劣りますが、同じ素材ですから、生姜や山芋にも同様の効果があることは間違いありません。気合を入れてがんばらなくても、薬膳はできるものなのです。
病気を治すために薬膳を活用する場合は、好きな食べ物を我慢しなければならない、という必要が出てくるかもしれません。しかし、病気の予防や健康維持のための薬膳なら、苦しい・つらい思いをしてまで我慢しなくてもいいのではないか。私はそう考えています。国際薬膳師だけでなく、産業カウンセラーやNLPプラクティショナーの資格も持ち合わせている私は、からだの健康とこころの健康はどちらも同じくらい大切だと感じているからです。
からだの健康のために苦しい思いで必死に取り組むのは、決して悪いことではありません。しかし、我慢が度を過ぎると、こころを傷めてしまうでしょう。それでは、本末転倒だと思うのです。
病気の予防や健康維持のための薬膳なら、「からだにいいものを食べている!」という意識を持つだけでも効果があります。だから、からだもこころも大切にして、いい気持ちで取り組める範囲のお手軽な手法として、“プラスワン薬膳”を考えました。
プラスワンするのは、中薬ではありません。「からだにいいものを食べている!」という、あなたの気持ち・意識です。中医薬膳学の基本的な考え方や食材の効果を知り、いつもの料理にプラスワンしましょう!